嘘やん。だってあいつ、昨日までこの椅子に座ってた。いつでもふたりでジローを探しに行って、そのまま三人で昼寝した。それで跡部を怒らせてふたりでしょげながら弁当も食うたし、は俺に古典を教えて、俺はに数学を教えてテスト勉強もした。なのになんで。何でやねん。なんで黙って転校なんかすんねん。 窓の向こう側は流れて、ああ、この街ともお別れかと思った。どうせ俺は転勤族だし、だから今までろくに友だちもできなかったし、だからあいつらと離れるのはなんだか惜しい気もしたけどそれもしょうがない。電車の中はつくられた静けさで満たされ、岡山までこんなにしんみりしたままなのかと思うと、ひどく気が重かった。黙々と進みゆく列車に乗り合わせた人にもなんだか体温を感じなくて、俺が求めているものではないんだと認識せざるを得なかった。俺がそばにほしいのは温かなともだちで、見知らぬ薄愛な友人なんかじゃない。俺は恵まれている。そう思いたいのに、その反面決して同意したくない自分がいた。恵まれてなんかない。俺は親友の一人も得られないのだから。静かに揺れる車内は俺を眠りにも誘(いざな)ってはくれなかった。 「今回のことはしょうがない」 跡部が囁くようにそう言った。力なく掠れたその声は、なにかほかのことを伝えようともがいているようにも聴こえる。少なくとも跡部の両目には、言っていることとはまるで真逆な感情が浮き彫りになっている。 「親父さんの仕事の事情だそうだ、残念だが俺たちにどうこうできる問題じゃない」 俺にしては珍しく部室に来たと思ったら(おれえらい!)重苦しい空気が、やる気を失った浮き輪のように沈殿している。誰のことを話しているかはだいたいわかった。ここにただ一人いないレギュラー。 。普段は存在感なんかない、風みたいなやつだ。柔い声音で話すあいつは夏の木立のように涼しげで心地よい空気を纏ってる。まるで勝負師ではない。だけど俺はあいつに勝てたことがなかった。俺も勝ち負けこだわんねえからおあいこだけど。ジロー強いね。そう言っていつもあいつは笑ってた。マジでそう思ってたのかな。もしそうならだったらやばいくらいうれしい。まあは嘘つかねえけど。 「なんでそんな他人事やねん・・・」 今にも雨が降りそうな天気が窓の向こうに広がる中、忍足が唸るように言った。雷の閃光が立ち上がるように空に現れて、瞬く間に消える。 「どうこうできへんなんて、やってから言えや」 「・・・・」 あーあ、忍足のやついらいらしちゃってるよ。こうなっとめんどくさいんだよね。ガラスの向こうも嵐の予感。俺はが幸せならそれでいいんだけど。まっきっきな頭をかいて欠伸をひとつもらした。 耳を疑った。監督はこちらに視線も向けず、説明を続ける。その冷水のような対応に、現実を見せつけられたような気分になる。たしかに目の前に横たわる現(うつつ)は真実だ。 「岡山だそうだ」 「お、か山、ですか」愕然。 「のことは、部長であるおまえが部員たちに説明しろ」 はい、と返事はしたがぼんやりとしたままだった。このことはきっと誰も知らないんだろう。部全体に のことが知れ渡ってしまうのも時間の問題だ。部員が混乱を起こす前に、早急に部活の話し合いの場を持たねばならない。それに対してただ少しの不安があったがかき消してしまうことにした。 やはり、はじめに取り乱したのは忍足だった。俺だってどうにかしたい、でもなにがあんだよ俺たちにできることなんかあるわけねえだろ。胸倉をひっ掴んで罵倒してやりたかった。しかし、好き勝手怒鳴ってくるいつもの冷静さを失った忍足の姿を視界から外して、堪える。これものためだ。俺たちが未練がましくひっついてしまえば、せっかく決断した意が揺らぐかも知れない。忍足は何も言わない俺に我慢ならない様子で部室を飛び出した。雷鳴が轟き、瞬間、部屋の中が明るく浮き上がる。少数の部員たちは逆に静まりかえっていた。俺は忍足が羨ましくもあった。俺も今すぐ飛び出してを追いかけたい。部長である自分には決して許されない行為だと判っていた。 跡部は一回もこっちを見なかった。狡いやつや。自分の感情をプライドで覆い隠して、それがあたかも本心のような顔をしている。途端に腹が立って、跡部の胸倉を捕らえてやりたかったが、無駄だとわかった。こいつはきっと本音を最後まで誤魔化し続けるんだろう。俺が今しなければならないことは、を探すことだ。外は雨が降っている。こんなもの、俺を妨げるためのなんの足しにもならない。当たったら痛そうな雨粒を一瞥して心の中で舌打ちする。のあほ。ほんまに殴ったる。ドアノブを捻って飛び出すと、風が強かった。前髪がすべて後ろに持ってかれる。めがねが雨で濡れて前が見えにくい。後ろで誰かが「忍足!」と俺を引き留めようとする声がした。 駆け出した忍足に岳人が必死に呼びかけたけど、なんの反応もなかった。風の力を借りたドアが派手な音をさせて閉まった。一瞬見えた外の景色はかなりの荒れ模様で、忍足が生きて帰ってくるのを祈るばかりだ(まあこれは言い過ぎだけど)。閉まったきり開くことのない扉を見つめた跡部は、それはもう見ていられないくらい苦々しい顔だった。それとは逆に、冷め切った部員たちの表情を見て、やだやだと頭を振る。跡部はそのまま顔を伏せた。そんな顔してっと部員に示しがつかないと思わねえ?俺もを追いかけたくなっちまうよ。 羨ましかった。忍足の背中が羨ましくて、奴を押し退けて自分がいち早く部屋を出てしまいたかった。虚しくて手に持っていた名簿を床に叩きつける。きっとそこには未だに彼の名前が息づき、存在を主張し続けるのだろうか。そう思うと非道く打ちつけたそれを拾うことさえままならなかった。。おまえはどうしていつもそうやって俺の手に空を切らせる。おまえを捕まえようとすると、いつだって俺の両手は空振りしてしまって酸素を握る。おまえはいつも遠く彼方にいるようで、切なかった。俺も、皆も。今は忍足に託すしかなく、そんな俺が情けない。早くあいつを掴まえてくれよ忍足。頼むから。 東京駅に着いた。三十分後に出発して、岡山まで一直線だ。俺はふらふらと複雑な駅構内を歩き回って(プリンとか旨そうだった)、暇を潰すことにした。家族は俺より一日早く岡山に到着している。そう簡単にあの街を抜け出せるはずもなくて、温ま湯に溺れていたのだ。別離を拒否する己を溺愛し甘受する心と、再会を信じ切ったまま旅立つことを推奨し胸が傷つく行為を回避する心。そのふたつが交錯しては距離を置く。だがそのまま心地よい気分を味わっていられるはずもなく、別れは必然だった。電車に乗るのが躊躇われた。でも乗った。足が震えて暫くはそこに付着したように離れられなかった(我ながらだっせえ)。携帯は開けられなかった。メールひとつ着信ひとつ見てしまったら、電車から飛び降りてしまいそうだったからだ。女みたいだ。いや、女って意外に強いから俺はたぶん女より弱い。ちょっとしたコーヒーストアでアメリカン頼んで、カウンターに座ったまま携帯を触る。さわるだけだ。それ以上のことはせず、開くこともできない。このまま岡山に到着してしまえば ・・・いや、それでも俺は構わないのだろうか。ほんとうに後悔しないのか。カウンターにおかれた白いコーヒーカップの中身は失せたようになくなり、虚無だけが俺の喉を通る。またいつか会えるさ、とかいう矛盾していて正確性のない楽観主義は俺の持ち味だったのに。携帯を開きたい自分と、そうでない自分が相反して平行線を辿っている。腹が立った。俺は一体どうしたいんだ。ぼんやりと底なしのコーヒーカップを見つめていたら突然携帯が鳴り出して、恥ずかしいくらいびくついてしまった。鳴ったままの携帯、出ることのできない右手。抵抗する脳内。急いでボタンを押して出なければいけない、でないと切れてしまう。震える手が折りたたみの携帯を開けた。画面が通話状態になったことを伝えていて、焦る。えっなんだよこれ・・・だれも頼んでねえし。機械には疎いから自然とそんな愚痴が漏れた。耳にそっと電話を当てると、通話口の向こうから声がした。 『・・・?』 やばい。 『聞こえとるんか、おい』 忍足が息も絶え絶え、なんだか安定していないような揺れた声がしている。走ってんのか? 「・・・・ゆうし、」 『瑛司っ・・・おまえ今どこにおんねん!』 「ごめん、侑士、俺もう」 揺れが止まった。彼の声が安定を保ち、激しい息切れだけが聞こえた。駅の喧騒なんか全く聞こえない。ただただ忍足の困惑した雰囲気だけが肺につぎ込まれていく。 『・・・おまえ、』 「もう切るよ」 『待て』 「なんで。もう電車出る」 『・・・駅やな』 「侑士、」 『今行く。絶対そこから動くなよ』 「侑士、もう電車が、」 『乗るな』 絶対乗るな。有無を言わさぬ声だった。もう電車はホームにはいないだろう。使い物にならない切符を握って、俺はずっとカウンターに座り込んだまま忍足を待っていた。 俺がほしかったのはなんだったのか、ふと考えてみた。俺の欲するものに対して、彼は熱すぎる。磨かれた木質の床に縫いつけられた足は微塵も動かず、意志なしに彼を待ち焦がれた。忍足は親友なんかじゃなくて、そういうものじゃなくて、それよりもっと深いところにあいつはいる。めがねの奥の目はとても静かでなにも語らず、俺を包み込むだけだ。それが快く俺の心につけ込んでゆく。熱く根ざした何かは隠されてしまうのだ。なぜ俺は忍足を待ち、電車を乗り過ごし、アメリカンコーヒーをおかわりして、大荷物のまま一時間もここにいるのだろう。きっと俺は彼を、いや、氷帝のみんなを求めてる。自分に醜い嘘をついたって、心に膜を張ったような真には適わない。だからここを離れようなんて一つも思わないし、俺はきっと今、あいつが声をかけてくれるのを待っている。 「早く来いよ、侑士」 俺は絶対ここを離れないから。仲間のそばにずっといるから。 テクノロジカルに純粋 (090125 続くかも・・・) |