秘密のよそほい 左腕に妙な入れ墨が浮き上がってきたのは、両親が死んで間もなくだった。シャワーを浴びている最中にふと鏡を見たその瞬間、声さえも出なかったのを覚えている。衝撃だった。見に覚えのない濃紺。 そんなことを考えている際も、の左腕には妙な絵画が浮かんできていた。じわじわと湧き出るように。鳥とその羽根と大ぶりの王冠、それから何やら複雑に絡み合った植物の蔓。 何を表現しているのか、にはさっぱりわからない。頭にさまざまな種類の呪文や紋章や刻印などが浮かび上がってくるが、どれもしっくりこない。は疑問の噴き出す頭を抱えた。シャワーから注ぐ湯に包まれる。 次の瞬間、かなり鋭くピンときた。そうだ、確か「鳥」は父の守護霊だったはずだ。とすると待て、ではこれは父が彫ったのか?万が一そうだとして、ではなんのために、そしていつこれを?父がするにはあまりにナンセンスな気もするが、しかしここに含まれる意味が分からない限り、なんとも言えない。 とりあえずリーマスには絶対言わないでおこう。彼に心配事は持ち込まないほうがいい。はそれだけは譲れないと思った。なにより心配性だし。彼を育ての親として認めた日から心に決めていることだ。彼の優しさに救われたあの日から俺が彼を守ると決めた。 しかしそのときでさえ、謎の刺青は彼の体を蝕み、左腕から背中に広がっていた。まるでインクを水に垂らしたように。 初めて教授助手としてホグワーツにやってきたときを遙かに上回る緊張に苛まれる。両手は手汗でぬるぬるしていると同時に恐ろしいほど冷えていた。はじんわり汗の浮いた額に手をやる。気合いを入れて新調した白いYシャツに黒いタイ、ミルクココア色のベストを着込んできたが、今の己の表情を思い浮かべるとそれも台無しだろう。ベストの左胸に刻まれた月桂樹は一体誰に捧げられるものなのか。きっと自分じゃないな。は密かに悲しくなる。 が一気にドアを開けると生徒の目が一斉にこちらを見た。脚が進むことを拒んだが、そんな自分に鞭打って一歩踏み出した。机と机の間を通ると女生徒の華やかな声がささやかに響く。初めてここに教授の助手としてきた日のことを思い出した。そう、あれはそう随分と昔のことではないのだ。あの日と一緒だまったく一緒だ。でも異なる部分がひとつ。俺は、そう、教授になった。は前しか見ることができず、震える体が情けなくて恥ずかしかった。あの教壇に立って笑顔を忘れないように気をつけて・・・はうわああぁとなった。細かいことを考えられる状況じゃないんだよ俺。 顔を上げると生徒の輝く目がそこにあった。そこにはやはりハリーやロン、ハーマイオニーの姿もある。絶対の授業はとるよ!と要らぬ思いやりをくれた彼らだ。3年生4クラス集めたところで30にもならないだろうと考えていただが、その予想を裏切って2クラスで30人、4クラスで60人にもなった。はじめはぎょっとしたが、次いで骨が折れるなあと思った。こんなにたくさんの責任を負わねばならないのかと、胸が苦しい。しかもが教鞭を執るのは3年生と5年生もなので、60×2になる。 まずはお馴染みの咳払いだ。ほら、教授っぽい。メルシーは若干落ち着きを取り戻した。 「今日から君たちの魔法哲学教授になった=だ。・・・そんなこと言わなくてもみんな分かってるだろうけど。まあ、これから末永くよろしく、グリフィンドールとスリザリンの諸君。ようこそ哲学の世界へ。」 はにこりと微笑む。大きな親愛を込めて両手も広げてみせた。俺が君たちの哲学の世界への扉になろうと。生徒たちは、ほうとため息をつくと惚れ惚れとその様を眺めた。彼の美しさには目を見張るものがある。切れ長の目には突き刺すような冷たさはなく、すべてを包囲する優しさや暖かみが宿る。・・・背中は汗でぐっしょりだが。 は教科書185ページを開くように促すと、紙同士が擦れる音を聞きながら深呼吸を繰り返した。どうやら自分は相当なアガリ性らしい。杖を振る。黒板に白い筆記体が表れる。 philosophy 要するに哲学と書いたはそこで生徒たちに眼差しを向けた。 「何故を知る。これが哲学の大前提だ。そしてそこに魔法が絡むとなると、魔法哲学になる。そこまでは簡単だ。だが、人間というものは自分の心さえ理解できないことがある。自分の周りにある謎に立ち向かうべき哲学なんだけれどね。だからそこから知ろう。うん・・・俺はそこから始めたんだ。哲学とはいろいろな学問を総合したものといえるが結果として、学問では解明できないものを解釈するのが哲学という学びだ、とも云える。うーん、わかんないか。まあ要するに俺が言いたいことは『まずは自分を知ろう』ってこと。」 はまた杖を使い、ゆっくりと黒板にハートを描くと、何度もその上をなぞった。 「たとえばそうだな・・・ハリー、君は残しておいた大好きなデザートを大嫌いなやつに食べられたらどう感じる?」 ドラコを思い浮かべながら、 「すごい腹が立つと思うよ、それから僕もいつか同じことで仕返ししてやろうと思う。」 「要するに、怒り。そうだな?」 頷くとが仄かに微笑んだ。 「好物を他人に奪われたということに大抵の人間は怒りという感情を抱くだろう。ではなぜ怒るのか。そもそも怒りとは何だ?人間はなぜ怒るということを覚えたのだろうか、何の為に?」 生徒たちが黙りこくった。もはやを見る目は恐怖におびえてる。どうやら理解できていないらしい。困ったな・・・は痒くもない頭を掻いた。なんとか言葉を紡ごうとして言葉を発してみる。 「うーん、ああそうだな・・・心は誰もが持っているから、難しいと感じることはまずないと思うんだが。君たちには己を察知するという技術を身につけてほしいんだ・・・と同時に他人のことにも深く思慮してほしいんだ。まずはゆっくり簡単なところから始めていこう。じゃあ、シェーマス、14行目から読んでもらっていいかな。」 これで少しは理解する姿勢を持ってくれるかな。シェーマスの声を聞きながらは心の中で苦笑した。学びを教える者がどれほど尊いか、今になって身にしみて感じている。だがそれと同時に辞めるわけにはいかないんだと思った。つい最近リーマスに泣きついたとき、彼の優しさに驚いた。がその優しさにすべてを委ね、積極的な奮闘心を失すという可能性さえあったはずなのに、それを畏れることなくを包み込んだ。その優しさに驚いた。彼はマリアも尻込みするほどの慈悲に溢れている。だから自分もその優しさを持ってして、生徒たちと接していきたい。それが教師としての己の決意。 授業が終わった後、質問にくる生徒は多かったがみな笑顔だった。哲学が嫌いになりそうかい?が問うと、生徒たちは笑顔でそんなことないよと応える。だってが好きだから。 ああ、リーマス本当だったね。好かれることがこんなにも嬉しかったことは今までになかったよ。まるで薔薇の花弁のように一枚一枚ゆったりと花開いてゆくその心地よい好意に、涙が出そうになる。 基礎体力は使わないとだんだん衰えていく。夕食も食べ終えたのであとはシャワーでも浴びて寝るだけだと思うのだが、塔へ向かう階段がこれほど険しいものだったなんてと、失望が隠せない。学生時代には思わなかったことだ。登りきったが息切れが激しかった。額にうっすら汗をかいている。二十歳で年齢を感じてどうすると、膝についていた両手を離してドアノブに手をかけた。ベッドが恋しい。 クディッチだ。メルシーは思い出した。あの頃はあんなハードなスポーツをやっていたから、体力があったわけだ。寮監はマクゴナガルに辞めさせられは暇を持て余していた。 辞任の理由としては「やはり甘い」だった。どこの寮生に対しても減点ができず、注意を促すだけだった。彼は減点ばかりされてきたものだから、そのトラウマがあるのか他人にも減点できないのである。それにまだ若い。マクゴナガルの心配も最後まで拭えなかったわけだ。 クディッチを少しでいいからやりたいという願望が一瞬頭を掠めたが、いやいや俺は授業の組立に忙しいんだとは頭を切り替えた。箒は壁に立て掛けられたままで、はタイをベッドに投げた。そのまま一緒に突っ伏す。鼻がぶつかってひどく痛かったが、は痛がるのも鬱陶しくてただ眉間にしわを寄せるだけだった。明日も早いから、今日はシャワーもお預けだ。おやすみ。 20080829 |