ハリーにとって、両親の死をひしひしと感じた夜だった。 罪を犯したペティグリューを引き連れて、叫びの屋敷から這い出たハリーは、そこにいた人物に驚いて目を大きくさせた。走り寄ると、彼は月に照らされながらいつもの笑顔を見せる。 「、どうしてここに」 「リーマスに援護を頼まれてたんだけど、必要なかったみたいだね。それよりみんな、けがしてないかい?」 落ち着いた表情のハリーと話をしていると(真実を知ったであろう彼の清々しい顔を見てとてもほっとした)、後ろから誰かが寄ってくるのには気づいた。振り返ると、そこには伸びきった髪のやせ細った長身の男がいた。 シリウス=ブラック。は瞬時に理解する。彼については昨夜リーマスから話を聞いていた。もしかしたら、もしかしたら彼は殺人鬼などではないかもしれないと。しかし、自分の親友が殺人鬼であることには間違いないと。 無実の罪で十数年アズカバンに繋がれていたという彼の頬はそげ落ち、着ている服もただの布切れのようだった。しかし目だけは優しい光と強い意志を感じさせる。これがあの、シリウス=ブラック。今まで想像していた彼より遥かに人間らしく、優しげだった。 「きみが、グーリッドの息子・・・かい・・・?」 奇妙そうにつぶやいた男には頷いた。たぶん「グーリッドの息子」というのにピンと来ないのだろう、シリウスの表情筋は硬い。 は今まで信じてきた情報(彼が凶悪な殺人者だという嘘)によって、身体に力が入るのを禁じ得なかった。 「父を知っているんですか」 「ああ、もちろん・・・グーリッドも騎士団にいたし、学友であり戦友だった。彼は勇敢で聡明で誠実だった。まさしくグリフィンドールの気質だ・・・・それにしてもきみは、なんというか・・・」それまで饒舌だったのに、突然言葉に詰まったシリウスの代わりには微笑む。 「父に似ていない、ですか?」 語尾を濁したシリウスの代わりに最後まで言うと、彼は申し訳なさそうに笑った。 そうだ、彼は誰も殺してなどいないのだ。 「すまない。きみに初めて会ったのももうずっと昔でね・・・ミーシャに似たのかい」ミーシャとはの母親の名である。 「はい、見た目も性格も」 そう答えると、シリウスはくすりと笑って、肯定とは異なる返答を寄越した。 「でも、目の色と声はグーリッドと同じだ」 そのときの彼はとても美しくて一瞬空気が清浄されたような。 そういえば昔、父に聞いた。シリウスはホグワーツ一の男だったと。あれはきっとこの端正な顔も含まれていたのだろう。 父は昔の話をし出すと止まらなくて、とても楽しそうだった。そのころもホグワーツにいたから、この城がどれほど崇高で尊い場所かは誰よりも知っていたが、それでも父が語るホグワーツの姿は魅力的で羨望の的だった。そこを闊歩する学生たちの生き生きとした様もまた、には夢の世界のことのように思われた。 まわりが月明かりに照らされはじめた。このあとはまず、ペティグリューを塔の牢屋に繋ぎ、ダンブルドアに報告して、負傷した仲間を医務室へ。 さて、一番体力のある自分が張り切らなければと、袖をまくったその瞬間、 「・・・!!」 ハーマイオニーがつんざくような悲鳴を上げた。月を指さす彼女を一瞥して、視線を指の先へ遣る。 の安堵はもはや絶望と拒絶に支配されてしまった。全身に鳥肌が立つ。まさか月見表を十分に確認できていなかったのだろうか。 空に浮かぶ・・・、満月。 はごくりと喉を鳴らすと、リーマスに向かって走り出した。このままでは誰かが傷つく。確実に。 後ろからハーマイオニーの制止の声がする。が、彼には聞こえなかった。目の前でたったひとりの愛する家族が、おぞましい変貌を遂げていたからだ。 「リーマス!!」 正面から抱きついた。もちろん膝は恐怖で笑っていたし、指先まで凍えるように冷えていた。リーマス、リーマスリーマスリーマス。頼むから帰ってきて。は祈るように心の中で唱えた。だが、かなわない。 簡単に弾かれたは、ペティグリューの上に落とされた。その拍子にペティグリューの手から、握っていた杖がこぼれ落ちる。ハリーがそれを奪って再度ペティグリューを拘束した(彼は杖を手にしてネズミの姿に戻ろうと試みたが、また杖を奪われてうなだれていた)。 はこちらに牙を剥こうとするリーマスをじっと見つめた。目を逸らせばその瞬間に爪で抉られるのは間違いない。咬まれれば自分が人狼になってしまう。だがそのどちらも、にとってはもうどうでもいいことだった。 重傷を負って死にかけようとも、人狼になって世間から見放されようとも構わなかった。ただ彼が苦しむのを見たくないだけだ。 はゆっくりと立ち上がった。狼男の姿をしたリーマスは頭を抱えて、悶えるように唸る。おそらく目の前に立つ青年を傷つけることを、僅かに残った理性が拒んでいるのだろう。弱々しい呻き声を上げるリーマスに、は少しずつ近づいた。手を伸ばす。 「リーマス、叫びの屋敷に、」 そのとき、振り上げられた野獣の腕を咄嗟に避けることができずに、の体に鋭い爪が食い込んだ。 しまった──────!! 心臓がばくんと跳ね上がった瞬間、引き裂かれ、血がどくんどくんと流れていった。不思議と痛みは感じない。ただただ傷口が熱い。焼いた刀で斬りつけられたようだ。強い衝撃では膝から崩れ落ちた。 その騒動に目を覚ましていたスネイプはを背負い、足に怪我をしたロンをハーマイオニーに任せて、ペティグリューを引きずっていった。魔法の力を借りながら罪人を塔の頂上の牢屋、ロンとメルシーを医務室に連れて行き、自分の治療を後回しにしてもらいながら、ふたりの様子を見つめる。スネイプはらしくもなくぼんやりとしていた。リーマスに立ち向かっていったが、脳裏に浮かぶ。 はまだ意識を取り戻してはいなかった。命に別状はないとマダム・ポンフリーは診断したが、気が気でない。出血の量は凄まじかったし(今でもスネイプの衣服の背中あたりは血で湿っている)何よりあの狼男の爪だ。傷はかなり深いはずだ。恐る恐る手を伸ばし、彼の手にそっと触れるとちゃんと暖かかった。 そのまま彼の手を握り、スネイプは眠りについた。 「う・・・」 翌朝、は目を覚ました。思わず立ち上がっての顔を見ると、うっすらと目を開けて、昨夜からずっとここにいたスネイプを見ていた。状況が分からないのか、視線をきょろきょろさせている。医務室にいることを伝えると、は掠れた声で言った。 「リーマスは・・・?」 まったく。こんなときくらい自分の心配をしたらどうだ。スネイプは心の中でひそかに毒づいたが、ただ頷いてやるだけにした。ほっとため息をついたに気づいたロンが、向こうで騒いでいる。 「だが、人狼が教授と知れば生徒の親たちが黙っていまい」 スネイプは暖かな雰囲気をぶちのめすようにそう言った。 実際問題、人狼の存在はとても危険で、今回もあと一歩で生徒を傷つけるところだった。決して大げさな話ではない。 は血の気の引いた顔をしてスネイプにしがみついてきた。ローブを引っ張られ、スネイプは彼の突然の行為に驚いた顔をする。 「まっ待ってくれ、リーマスはなにもしていない、誰も傷つけていない!」スネイプは眉をひそめる。 「・・・誰も、だと?貴様は自分の有り様をもってしてもそう言えるのか。奴は現に薬を飲み忘れ、城の中にいたなら生徒に危害を及ぼしかねなかった」 「今回はこのような緊急の事態があったからであって、本来なら、」 「なかったと、言い切れるのか?奴はただ単に『飲み忘れた』だけかもしれない。これから先このようなことがないと、貴様は言い切れるのか」 「それは・・・、」 食い下がろうとして言葉に詰まる。 言い切れはしない。だが、リーマスが職を失い、再び世の中を彷徨う羽目になったらどうしようと不安になった。せっかくダンブルドアに認めてもらえて、ここでの安定した生活に落ち着いてきたというのに。俺のせいでリーマスが悲しむなんてこと、絶対にあってはならない。俺のせいで。目の前が真っ暗になった。 20090608 |